依存症と「自信」

依存症の方からよく「自信がない」という訴えを聞きます。

 

人によっては「自分がない」とか「軸がない」とか「芯がない」と表現される方もいらっしゃいます。そうした場合、そのこと自体が中核的な苦しみであることが多いです。

 

そのため、短期的にはスリップ(再使用や再飲酒など)を防ぐことが目標ではありますが、長期目標の焦点はスリップを防ぐための対処法を身に付ける事ではなく、それよりもさらに一歩踏み込んで、この自信のなさからくる痛みの軽減に合わせるよう勧め励まします。

 

その人の中に「確かな何か」を見つけて育てていくことを、カウンセリングの長期目標とします。

 

しかし、ここで問題が生じます。

 

「確かな何か」の「何か」とは何でしょうか。あるいは、自分の中の「芯」とか「軸」とか、そもそも、「自信」とは何でしょうか。

 

自分を信じることでしょうか。自分の「何」を信じることでしょうか。これまでしてきた努力でしょうか。あるいは、何らかの実績でしょうか。

 

しかし、依存症の方の多くは自己批判や自己否定が強く、自分のこれまでの人生を否定的に評価している場合が多いため、そもそもこれまでの努力や実績をポジティブに評価すること自体に困難を抱えています。

 

また、自信を感じると足元をすくわれるような不安に襲われたり、自信と自己愛の区別がつきにくいと感じる場合もあります。

 

しかし、そうした方々が得たいと願う「自信」は、おそらくナルシステックな「自己愛」とは違うと思います。

 

自己愛は、自分を守るために培ってきたその人の「知恵」という側面があります。しかし、クライエントの中に育って欲しいと私が願う「自信」や「自己肯定感」は、自己愛とは根本的に異なるものです。

 

どういうことかというと、自己愛は一見、強さのように感じられますが、自分が苦しんでいることの否認だからです。自己愛は、自分の中にある痛みを感じることを避けるために作り出される幻想です。

 

ちょっと話がズレてしまいました。最初の問いに戻りましょう。

 

自信や芯や軸といった、その人が求めている確かな「何か」とは何でしょうか。

 

私は、その「何か」とは、クライエントの心の奥底に抑えられ光を当てられずにいる「本当の気持ち」や「本当の欲求」だと思います。

 

本当の気持ち?

本当の欲求?

 

当たり前と感じるでしょうか。

それとも、あいまいだと感じるでしょうか。

 

しかし実際のところ、クライエント本人がその心の底にある気持ちや欲求に触れた時、それは全くもって当たり前でもあいまいでもなく、「本当はこう感じてたんだ」とか「誰が何と言おうとこの感覚は本物だ」という感覚を得ます。

 

それが本当の「自信」、自分の中の「芯」、「軸」です。

 

ただ、そこに触れることは痛みを伴うため、ひとりでは難しいと思います。

誰かが一緒にいてくれる必要があります。

 

なにも、その誰かがカウンセラーである必要は必ずしもありません。

友達だったり、家族だったり、先生だったり、コーチだったり、同僚や上司やメンターだったり、いろいろだと思います。

 

ひとりでも多くの人が、自分の中に芯を持つことをお手伝いできれば幸せだなと思いながら、日々クライエントにお会いしています。